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Long way home



こちらの記事でも書いた誹謗中傷の裁判についてですが、6月1日に勝訴の判決が出ました。

すでにTwitter等では報告していましたが、応援してくださった皆さま、そして共に闘ってくださった弁護士の皆さま、本当にありがとうございました。たくさんのお祝いのメッセージも、とても嬉しいです。

またこれについては、すでに各所で報道もされています。この判決が、そして自分の体験について公の場で私が語ることが、今後バッシングの被害者を減らすことにつながっていけばと思っています。


同日午後から行った記者会見では、10分弱のステートメントを読みあげました。

以下はその全文です。ぜひ最後まで目を通していただけると嬉しいです。




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こんにちは。元SEALDsメンバーの福田和香子です。

今日は、そもそもの経緯、誹謗中傷による生活への影響、そしてこの経験から私が伝えたいことについてお話しします。


SEALDsのメンバーとして活動していたのが2015年、それから現在に至るまで、インターネット上において執拗な誹謗中傷を受けてきました。インターネットで度々起こる誹謗中傷。私は、それは「ネットの問題」ではなく「人間の尊厳の問題」だと思っています。テクノロジーが「実際にはありもしない人間の悪意」をでっち上げているというわけではなく、テクノロジーを言い訳にして他者の尊厳を踏みにじることを正当化する人間が社会には一定数いる、ということです。



具体的には「反日売国奴」「はやく日本から出ていけ」「首吊って死ね」というようなものから、私の容姿をけなすものや「レイプしたい」「クソフェミ」「女は政治に口を出すな」というような性差別を含むものまで、こちらの尊厳を奪うために、そして、物言う若い女を黙らせるためだけに投稿された本当に多くの言葉の持つその暴力性に、晒され続けてきました。

それらの誹謗中傷の数多くは、匿名で行われたものです。



顔と名前を出して活動していたこちらに対して、匿名で日々投げつけられる罵詈雑言の数々。一日何百件と届くそれらに、私はなんのアイデンティティも見出すことができませんでした。私は、インターネットから匿名性を排除することには反対です。しかし、匿名による誹謗中傷を受けるということは、常に「顔のない敵」と対峙し続ける、ということでもあります。

新しい環境や、人との出会いなど、社会で生活を営むのに必要になるそれらの機会。しかしその度に、この新しい職場に、通学に使うその電車の車両に、または友達に誘われて行った集まりのその場に、それらの悪意に満ちた書き込みをしたその本人がいるかもしれないという恐怖がつきまといました。想像してみてください。インターネット上に、自分の顔と名前に紐づけられた憎悪の言葉が溢れかえっている状態。

そして、それらがどこの誰によるものなのか全く把握することができない気味の悪さ。さらに、女性だからと、セクシズムにも直面させられる。それは被害者を萎縮させ、ひいてはその被害者の人生における未来の可能性までもを奪うことにもつながります。



画面を閉じればいいじゃないか、と。アカウントを消してしまえばいいじゃないか、と。日々誹謗中傷に晒されていた当時もよく言われていたことを覚えています。たしかに、画面を閉じてしまえば、そこに書かれた大量の誹謗中傷を目にしなくて済むでしょう。自分の目に入らないものは自分の世界には存在しない、と割り切ることだってできてしまうかもしれません。

しかし、それが一体なんの解決になるでしょうか。

匿名での誹謗中傷を受けることで生まれる恐怖の対象は、そこに書かれた言葉そのものだけではなく、そのような言葉を平気で打ち込むことのできる人間が画面の向こうにいるというその事実です。



インターネットでの誹謗中傷、と聞くと、その知名度に差こそあれど、いわゆる「公的な顔」を持つ「有名人」をターゲットにしたものだと思われがちかもしれません。私はSEALDsのメンバーとして活動していた当時こそメディアに顔と名前が載ることが度々ありましたが、それでもただの一般市民にすぎません。

つまり、インターネットでの誹謗中傷は、誰にでも起こり得るものであり、また、誰しもがその加害者になる可能性を持っています。もちろん、有名人だから仕方ないのだ、ということも決してありません。思いつきの軽薄な言葉遣いに悪意を乗せて他者の尊厳を踏みにじることは、相手が有名だろうがそうでなかろうが、同じように醜く卑怯な行為です。



昨年からのコロナ禍で、今まで以上にリモートワークやオンライン授業などが日常生活の一部になりました。生身の対話と画面を介してのコミュニケーションとの距離がより縮まってきているのではないでしょうか。プライベートとそうでない空間がない混ぜになってきている。それについては、より多くの人が意識すべきことだと思っています。



実際、被害にあっても裁判を起こすどころか、そこで受けた傷を認識することすらためらってしまうという人もいるでしょう。今回この裁判を起こすにあたって、私自身、これまでに投稿された数々の書き込みを改めて目にしなければなりませんでした。それは、自分がどれだけこれによって傷つけられてきたのかを再確認する作業でもありました。


民主主義と、より良い社会のために、と、声をあげた若い女を黙らせようと、あれだけの数の誹謗中傷がインターネットに降って沸いたようにして現れました。なかでも特徴的だったのは、私の政治に関する主張とはほぼ関係のないものが多くみられたということです。

問題は、政治的イデオロギーというよりは、物言う女(そして声を上げる若者)を黙らせようと、出る杭はどうにかしてへし折ってやろうということだったのではないでしょうか。そしてそれに躍起になる人間が、この社会にはあんなにたくさんいたということです。


声を上げることが、より良い社会を求めて行動することが、ここで暮らす一定数の人間にとっては、いまだに異端であるということです。しかし、それは、本来民主主義の国において当たり前のはずのその行動をとった私が、痛めつけられていい理由には、ならないはずです。



自分が受けた誹謗中傷について公の場で口にすることを躊躇うことがありました。他の誰かを萎縮させるんじゃないかと、不安になるからです。けれど、私には傷つけられた時に、足を踏まれたときにそれをどけてくれと怒る権利がある。痛いと感じた時に痛いと涙を流すことは、弱いことでも恥ずかしいことでもないはずです。


画面を通した言葉で受けた傷は、実際に身体に暴力をふるわれるのとは違い、わかりやすく目に見えるものではありません。大勢から一斉に叩かれるという体験は、多くの人がするものではないですし、私自身、実際に自分が攻撃されるまで、その劣悪さについて深く理解していたとは言いきれません。しかし、誹謗中傷が原因で命を絶つということまでも起きているなかで、その現状を「当事者にしかわからない辛さ」でまとめてしまいたくはありません。今回こうして裁判を起こすことができたのは、こうして自分が受けた被害について思うことを語れるのは、私がたまたま恵まれていたからということに他なりません。黙っているよりは、前例を作る、またはその数を増やしていくことで、少しでも現状改善に繋がれば、と思い、こうして声をあげることを決めました。


もしも今、自分に向けられた心ない言葉に傷ついている人がいたら、どうかその傷ついている自分を否定しないで欲しいなと思います。誹謗中傷は、建設的な批判とは違います。無責任に放り投げられた言葉を真面目に受け取ってしまうことは、弱さでも未熟さでもありません。傷つくことも、感じることも、決して恥ずべきことではありません。



そして、インターネットを利用するすべての人へ、自分が「言葉」に対して真摯であるかどうか、今一度問い直してほしいと思います。

そして、自分の言葉には良くも悪くもパワーがあるのだということを自覚して、責任を持ってください。あなたが暇潰し程度にしたその書き込みの対象も、また「血の通った人間である」ということを忘れないでください。私とあなたは「まったく同じ人間」ではありません。どちらも人間であるという点では同じですが、それぞれに違った特徴や個性を持っています。自分と他者の違いを、尊重してください。便利さや一瞬の快楽と引き換えにまだ見ぬ他者への想像力を捨てることをやめてください。



私は、大量の誹謗中傷に晒され続けてきたこの6年間で、とても強くなりました。その強さは、拭えない人への不信感や外に出ることへの恐怖、そして社会に対する深い絶望から生み出されたものです。

生きていくなかで、誰も傷つけず、また、誰にも傷つけられず生きていける人などいないように思えます。しかし、傷つけられた時に、声をあげることは、私が持って生まれた権利です。私には、幸福を追求する権利があります。強くなってしまった私は、強くならなくたって、苦しまなくたって、生きていける社会を希求します。これ以上、強くなることを強いられる人が増えずに済む社会を、希求しています。今日判決の出たこの裁判が、また、こうしてここで私が話すことが、そのきっかけの一つになればと思っています。


ありがとうございました。



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ステートメントは以上です。


その後の質疑応答でいただいた質問のなかに、「声をあげる次の世代に伝えたいメッセージは?」というものがありました。それに対し私は、「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」というようなことを言いました。このメッセージは、私より若い世代に限らず、この社会で生きるすべての人に届けたいと思います。


強くならなくたって、歯を食いしばらなくたって生きていける社会のために。




Wakako Fukuda









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