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No one deserves pain


蓮舫候補が連日あちこち飛び回っている様子がSNSでたびたび流れてくる。タフな人だなぁと思う。

もうとっくに回答済みなのに繰り返し投げつけられる差別丸出しの質問や、言い方がキツいだの笑顔が怖いだのって中年男性には決して向けられることのない蔑視。今に始まったことじゃないそれらの相手をするのだって、タフじゃなきゃできない。政治家としての人生が彼女を強くしたのか、元々強い人なのか、それとも実際はそんなにタフじゃないのか。私には分からないし、本当のところはどっちでもいい。でも、少なくとも「強いフリ」とそれを成立させるだけの体力がなければ、あれだけの選挙活動はできない。それがしんどい。

つい最近、私の身体は人生で最も状態が悪くなった。生まれて初めての手術も経験した。生活に不便が増えて、当たり前だった健康がこぼれ落ちていって、今は手元にすこし残ったそれを抱えるのに必死だからもちろん街宣なんかひとつも行けなかった。そんな状態だから、蓮舫候補のタフさがよりはっきりと目に映るのかもしれない。







ずうっと健康でやってきた私は痛みに弱い。そしてそれ以上に、自分の身体が思うように動かないことに対する耐性がとても低い。それはもちろん過去の経験も大いに関係していて、たとえ一時的だったとしても身体のコントロールを失うことは、身体にまつわるトラウマを一気に呼び起こす。実際に私は安全な場所にいるはずなのに、頭がそれを認識してくれなくて泣けてきてしまう。誰に話したって分かってもらえるわけじゃないし、そもそもひどい痛みでしんどいって時にそんなことについて考えたくない。

痛みが最もひどかった時、ベッドから起き上がるもしくはトイレを済ませて立ち上がるってだけのことすら簡単には出来なかった。左手は手すりへ、右手は杖を掴んで泣きながら立ち上がるしかなかった。痛みで朦朧としながら、このまま誰にも気づかれずにトイレで一人干からびて死ぬかもしれないと思った。


できるはずのことができないのが嫌で、そして今後誰かの手を借りなければならないかもしれないという可能性が膨らんでいくのが怖かった。私はネット上で袋叩きにあってから一切誰のことも信用しなくなったし、仮にその経験がなかったとしてもここがどれだけ「弱者」に冷たい社会か知っている。知っていてずっと怯えていたから、たまたま生まれもった(少なくとも人生の1/3くらいは保つことができた)健康にすがっていた。涙を流しながら何回も言った、what (the fuck) did I do to deserve this? 悔しくて何回も聞いた。誰にむけて言ったわけじゃないけど、お天道様って考えが頭のどっかに残っていたのかもしれない。まあ色々やってきたかもしれないけどね、でもこんなひどい痛みってないんじゃない?って。それからすぐにゾッとして黙った。

NO ONE DESERVES PAIN. No one in Nazi concentration camps deserved what SS did to them. and certainly no Palestinian people going thru literal genocide right now deserves it either. 痛みに値する人なんか誰もいないし、病気や障がいは罰じゃない。でも世の中は健康優良児前提にできあがっているから、ついそう勘違いしてしまう。「元気な時には浮かばないはずの言葉」が口をついて出たときはじめて自分のなかに居座るableismと向き合うことになった。でもそれだってslightly less abledになってやっと考え直したことだから、おそらく私の足は思った以上のものを踏んづけてきている。




ほんとうは笑顔じゃなくたっていいし、それは私がわざわざ言うことですらないんだと思う。もう二十歳の頃とは違うから、愛想よくするのが利益になるってことくらい分かる。不器用だから全然できないけど、頭では分かっている。でも、女性候補の笑顔についてのコメントがテレビで流れて、それをみんなが笑っていて、それでも笑顔を崩さずマイクを握っている彼女を見て、申し訳ないけどありがとうと思ってしまう。女性候補に叩かれながらも立ち続けてくれてありがとうだなんて絶対に言いたくないのに。そんな気味の悪い感謝ってないのに。今、私はそれくらいに元気がない。


政治家を希望と呼ぶのはあまりにも危なっかしい。希望は市民で、法で、書物で、運動だ。政治家に希望のいくばくかを託すのはいい。まさに私は今日それをやってきたばかりで、でも希望は常にこちら側から始まるということをもう嫌というほど叩き込まれてきたから、仮に彼女が当選しなくてもまたなんとか積み上げていくしかないということも理解はしている。ただ、積み上げようにももうそんなに時間が残ってないような気がしていて、少なくともここ10年ほど日本の政治に注意を向けてきたから思うけれど(少なくとも2015年あたりにはまだ)なんだかぼんやりと存在していた共通認識というか、人間社会の基盤みたいなものが、この数年でごりごりと削られてしまったような感覚がある。水道の民営化だとか、9条の改正だとか、そういうリトマス試験紙的な判断基準はもちろんのこと、たとえば今回の政見放送のあれこれ(今更書き出さないけども)のような、ある程度のレベルで同じ言葉と文化を共有しているにも関わらずどうひねってみても理解のしようがない行動の数々なんかを見ていると、ここで変わることができなかったらもう立ち直れないかもしれないと妙な焦りを感じてしまう。



「結婚して子どもが欲しいとは思いません。そんな人でも安心して暮らせる東京っていう未来はありますか?」という質問に、蓮舫候補は「もちろん。未来しかない」と即答した(@renho_suguyaru on Instagram)

クィア(B)な私は同性婚の実現を望んでいるけれど、相手の性別がなんであろうと結婚願望はない。もしかしたらいつか理想が生まれるのかもしれないけれど、今のところ全くない。子どもも絶対に産みたくないし、育てたいともあまり思わない。

同性婚への動きが強くなることに安堵しながらも、「でもほうっておいてくれ」がいつもそのすぐ裏にくっついていた。ほうっておかれる権利(これはzineのタイトルにもしたくらい大事にしている言葉)を揉み消さないでくれ、孤独を一度たりとも否定しない人間だっているんだから、ずっとそう思ってきた。とはいえ制度の外に出されてしまったら生きていけないわけで、蓮舫候補はそのさまざまな生き方をシンプルに肯定して、平等に支えると言った。安心した。実際その通りになるかどうかは通ってくれなきゃ知りようがないけど、少なくともそう言い切ってくれる候補がいるってことに安心した。

おひとり様(ってのもなんだか捻くれた呼び方だけど)の生き方を肯定することで選択肢が増える。アフターピルにアクセスしやすい環境を作ることで選択肢が増える。おひとり様という生き方は結婚を促すための選択肢では決してないけれど、多様な生き方が保障されれば積極的な選択ができる。たとえ婚約時は幸せでも数年後の人の心がどうなるかなんて分からないし、私みたいに今は結婚も出産も勘弁してくれと首を横に振っていても、それが今後どう変わるかなんて見当もつかない。ただ、どう転んでも私の選択であることには変わりなくて、たとえそれが大多数の選択と一致しなかったとしても、変わらず保障されてくれなきゃ困るわけです。



大きく変わるかもしれないし、なんにも変わらないかもしれない。痛みのなかにいる私は、痛みに理解のある人に任せたい。勢いの良い喋りや、強さをベースにして進む社会はいらない。家父長制やミソジニーに都合の良い社会を加速させない人がいい。この国が過去に起こした大きな過ちを、そして今日まで続く差別を、なかったことにしない人がいい。杖なしには立ち上がれなくても、頭の靄が晴れないままでも、誰かに手を差し伸べてもらうことを恥じなくて済む社会がいい。七夕まであと5日。










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