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こんばんは。
こちらにも書いた控訴審での意見陳述から数ヶ月が経ち、本日やっと勝訴判決が出ました。そして、一審では99万円だった慰謝料が今回の判決では242万円になり、大幅な増額が決定しました。ここまでともに闘ってくださった弁護士の先生方、そして応援してくださったすべての人たちへ、本当にありがとうございました。
来週、この件に関してオンラインイベントが予定されています。詳細はまたTwitterにでも書くと思います。
今は判決を聞いてひとまずホッとしているところですが、忘れないうちに思ったことを少しだけ記しておきます。
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判決を聞いて、一瞬ぽかんとしてしまった。もちろん、慰謝料の額を増やすことは控訴した目的のひとつだったけれど、まさか一審に比べて143万円も増額されるとは思っていなかったから。こちらが名誉毀損に値すると主張した被告のツイートも、今回の判決では新たに7つのものが認められていた。
私は法律の専門家ではないけれど、これだけの大幅な増額の理由のひとつには、インターネット上での誹謗中傷が大きな社会問題として認められてきているという時代背景があると思っている。社会における出来事が社会問題として認識されるのは、被害を受けながらもそれについて声をあげる人や、その声を受け止め広げていく人たちの行動があるから。今回のこの判決も、そうした人たちの存在と決して無関係じゃないはず。
SEALDsのメンバーとして活動していたのが2015年。それから7年間ものあいだ、事実無根の執拗な書き込みに苦しめられてきた。7年って、小学校より長い。今回の判決で大幅な増額があったとはいえ、これだけの不信感や恐怖を植え付けられてきた7年間分のしんどさに見合う金額だよねとはやっぱり言えなくて。そもそもお前の痛みはカネで測れるものなのかと聞かれると、そうでもないような気がする。どんなに増額されても、私から奪われたものや抱えなければならなくなったものの重さをじゅうぶんに表せる数字はないような気もする。と、そんなふうに感じながらもやっぱり支払いを求めるのは、それが私の権利であるということ以上に、自分が金額で表せる以上の被害を受けてきたという強い実感があるから。
慰謝料の増額を求めて控訴に踏みきった理由には、慰謝料の支払いが誹謗中傷を書き込んだ者に課されることで、またその額が大きなものであることで、今後このような被害が減っていくことにつながるのではないかという期待もあった。ここで受け取ってほしいのは、これだけの書き込みをされたらこの程度の金銭の支払いが見込めるよ、ということではなく、なんの気なく打ち込んだそれらの言葉を理由にこれだけの支払いを課される可能性があるんだよ、というメッセージ。カネを払いたくないから書かないというのは根本的にはなんの解決にもならない。でも、もしそのことが頭をよぎって罵詈雑言のツイートを送信する手がいったん止まるなら、それは悪いことじゃないと思う。そういう意味での抑止力になるかもしれないなという期待ってことね。インターネットが生活により不可欠になって誰でも気軽に発信することができるこの時代に、誹謗中傷の加害者になる可能性は、ターゲットになる可能性よりもずっと高いと思う。私はSEALDsのメンバーとしてその当時しょっちゅうメディアに出ていて、政治について喋っていたってこともあって、どう考えても他の大学生よりは誹謗中傷の標的になりやすかった。もちろんそれは、私や他のメンバーに向かって投げつけられた罵詈雑言の数々をまったく正当化しないけれどね。
昨年2月に行われた尋問で被告と対面するまでは、それらの書き込みを続けている本人の顔すら知らなかった。だからそれまでは、どこに行ってもその場にその本人がいるかもしれないって怯えていた。ずうっと引きこもってたってわけじゃない。2015年から今に至るまで、新しい環境なんていくつも経験してきた。それ自体はラッキーなことだけど、そこには常に恐怖と不信感があった。不快な音や嫌な匂いがどこから漏れているのか分からなかったら、どれだけ眠たくても安心して寝つけないでしょう?ずっとそんな感じだった。
名誉毀損ってすでにある名誉がどれだけ損なわれたかっていう話になるわけだけど、名誉もなにも私はただの一般人。これは尋問や意見陳述の時に法廷でも話したことなんだけど、誹謗中傷の書き込みによって奪われるのは、名誉はもちろんのこと、未来の可能性でもあるんだろうなって思っている。相手の顔すら分からないまま攻撃され続けることで、本来そこになかったはずの怯えや諦めが生まれる。それらは希望や柔らかさをどんどん吸いつくして、時には人の命まで奪う。
私は、ソーシャルメディアが民主主義に必ずしも良いとは思っていない。抵抗のツールにはなり得るし、もちろんそういうふうに使ってきたつもり。でも、溢れかえる情報と、それがなだれ込んでくるスピード、そこにあるハリボテの高揚感、そしてよく計算されたアルゴリズム。それらをあくまでただの道具として留めておけるだけの知性を持っている人、もしくはその欠如に自覚的でいられる人って、そんなに多くはいないんじゃないのかな。
そして抵抗のツールという点からついでに言っておくと、匿名性は絶対に排除すべきではない。意外に思われるかも、匿名でなされた数々の投稿にこれだけ傷つけられたのに?って。もちろん、匿名性の蓑に隠れて人を貶めるのに躍起になるのは、最低だと思うよ。でも、そういう卑怯な人間のために市民としての抵抗のツールをまるごと手放してしまうのも違うんじゃないかなって。それに、身元が明かされている状態の方が安全だって信じるのはナイーブすぎるしね。
手を汚せ、と思う。文字通り、手を汚せ。
本をめくって、紙の新聞に触れて、ペンを握って、手を汚せ。
地面を踏み、声をあげて、目でものを見て、身体を使え。
画面越しにどれだけの卑劣な言葉を投げつけても、何度スクロールしても、手は汚れない。文字は滲まない。ページは破かれない。あんなに悪意に満ちた乱暴な言葉の数々は、ずっと安全な画面のなかで守られている。けれどそれらを発したのも受け取るのも生身の人間で、肌を切れば血の滲む人間で、だから決して滲まない文字に自分の怨念や鬱屈をねじ込むのは、やっぱりとても卑怯だと思う。
強いねって言われるたびに複雑な気持ちになるよ。だって、あんな悪意に晒されなきゃいけなかった理由なんてひとつもないし、もう何度も言っているけど、無理して強くならずに生きていける社会がいい。そんなの甘えだって、叶いっこない理想論をぼやいてるだけだって思われるかもしれない。けれど、すべての人の尊厳が守られる社会がいいんだって大声で主張できなくなったら、それこそほんとうにしんどくなるよ。それに、叶わないかもしれない理想を唱え続けられるのは、現実がそれとはほど遠いってことをよく分かっているからだからね。
この裁判も、怖かったし長引いたしで判決が出るまではかなりストレスだった。裁判ってそういうものなのかもしれないけど、少なくともSEALDsのメンバーになった時に、自分のライフイベントリストに裁判の二文字はなかった。でもこうして勝訴判決が出て、慰謝料の増額もされたことで、判例を残せたという意味でも行動を起こしてよかったと思っているし、どうかこれがちょっとはマシな未来に繋がってくれたらって本気で願っている。
追記:Twitterを新しくしました。こちらからよろしくね。
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